【感想】ジーン・ウルフ『ジーン・ウルフの記念日の本』
そこで、彼は、またハイウェイの路肩へと思った。いまだに不安は癒えなかった
家人と交わす何気ない雑談が幻想への入り口となる。最後の一文が本短編集の本質をよくあらわしていると思う。
そして、彼は消えた。私はもう彼に飽きたのだ(あなたたちみんなにも飽きてきた)。
風刺の手段としてのファンタジー
最初に断っておきますが読んでません。
中国文豪、老舎のアンチユートピア小説『猫の国(猫城記)』について - Togetterまとめ
この @ETakiyam 氏の連続ツイートを読んで『猫城記』(サンリオSF文庫、絶版)について興味を持つと同時に、いくばくかの違和感もあったのでメモ。
最初に感じたのはフィクション——とりわけファンタジイ——において、現実をどれだけ表現しているかで作品を評価する観点も(今どき)あるのだということ。
そうした「風刺」や現実批判のための物語を全否定するものではない。たとえばスタニスワフ・レム『泰平ヨン』シリーズにも当時の社会主義体制や社会に対する風刺の側面がある。ただ筆者(私)自身はそうした傾向が強い作品の多くに魅力を見いだせない。
批評や風刺のためにする物語は、登場人物を世界を描写するための小道具とみなしがちで、いきおい登場人物のリアリティ——人間性といっても良い——に欠けるきらいがあるから。
一方、望むと望まざるに関わらず同時代性を付託されてしまう物語もある。『指輪物語』において作者トールキンはそうした見方を拒否したことは知られているが、二つの世界大戦とナチス・ドイツ。ヨーロッパの衰退とアメリカの勃興など当時の世界を容易に見いだすことができる。
そもそも筆者だって、ポール&コーンブルースの古典SF『宇宙商人』について現代のグローバル経済とそれに翻弄される社会を予言とか力説したりして人のことは言えない。
結論すると、物語はある程度時代性といったコンテクストの制約を受け、古典であってもまったくの真空には存在できないのである。とりわけ言いたいことを自由に言えない社会に根ざした表現手段として、フィクションにそうした社会への批判を仮託する傾向があった(そして今でもある)ことは頭においておくべきだろう。
【追記】
【感想】ケン・リュウ『紙の動物園』
収録作品の多くにSF的思弁と叙情性が共存しているが、同時にある種の無力感——異なる文化に属するものの間には決して理解しあうことはない——も見出すことができる。
「個々の石はヒーローではないけれど、ひとつにつどった石はヒーローにふさわしい」
「この世界にはおぞましい物語がたくさんあるが、法律は一部の話だけ耳を貸す価値があると見なしている」
「自分の心だけど自分そのものではないことに。わたしが何者なのか自信がない。だけど、わたしは戻ってくることを選んだ。なぜならこのわたしの方が好きだから」
世界じゅうで、人生は永遠に続いていたが、人々はより幸せになったわけではなかった——人々はいっしょに成長しようとしなくなった。結婚している夫婦はおたがいの誓いを変えた。もはやふたりをわかつのは死ではなく、退屈だった。
医療処置によって実現された不老不死を通じて一人の女性の「死と生」を語る。人類や社会という大きな総体ではなく、語り手の人生の物語として描くバランスのとれた作品。
宇宙になにか新しいものを。家族にだれか新しいものを。
人体は再生の驚異だ。一方、人間の精神は、ジョークだ。信じてほしい、わたしは知っている。
「あたしたちにできることがたったひとつある、生き延びるために学ぶのよ」
【感想】エリザベス・ムーン『くらやみの速さはどれくらい』
暗闇がなぜ光より速いかと言えば暗闇は光より先にそこに行きついているからだ。(第十一章)
くらやみの速さはどれくらい (ハヤカワ文庫 SF ム 3-4)
- 作者: エリザベス・ムーン,小尾芙佐
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2008/12/10
- メディア: 文庫
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主人公ルウ・アレンデイルは自閉症者で製薬企業の研究開発部門に勤務している。この時代、初期段階の早期介入技術の向上と教育法と、コンピュータによる感覚統合訓練の進歩により自閉症を抱える人々もある程度まで社会に適応することができた。しかしその後の遺伝子治療の導入で彼や彼の同僚は「最後の自閉症者」の世代となっている。
物語は「私」ルウの目から見た日常を、彼をとりまく「正常な」人々のパートを挟みつつ描写する。
星の光は、とある作家は言った、宇宙全体にみなぎっている。宇宙全体が光っている。暗闇は幻想である、とその作家は言った、もしそうなら、ルシアの言うことは正しく、暗闇に速さはない。
だがここに単純な無知がある、知らないということ、それから知ることを拒むという恣意的な無知、それは知識という光を偏見という暗い毛布で覆うもの。だから私は、きっと陽の暗闇というものがあると思う、暗闇には速度があると思う。(第十六章)
私は自分のオフィスに入り、光と闇と星と、星が注ぐ光であふれている宇宙空間を思う。あんなにたくさんの星がある宇宙になぜ暗闇があるのだろう?星が見えるということは、そこに光があるということだ。
(中略)ほんものの光があることころ、われわれの器具の届かぬ先、宇宙のかなたの縁であるそこは暗闇が先にやってくる。だが光はそれに追いつく。(第十九章)
本作の中でいくどか挿入される暗闇のメタファー。ルウは自分のいるところが「暗闇の中」なのか自問する。それは彼、自閉症者が正常(ノーマル)な人々と何が違うという疑問につながっていく。
「ぼくは、今の自分が好きです」と私は言う。「自閉症はいまのぼくの一部です。それは全体ではありません」それが真実であればいいと私は思う、私は自分の診断判定以上の人間なのだ。(第十七章)
ルウの勤務先では新しい上司が自閉症者に対して新たな治療を導入しようとする。またルウが所属するフェンシングクラブでは彼を巡って人間関係がきしみ始める。
ルウと同じく自閉症者の同僚たち、彼らもまた新治療によって自分が自分であるよりどころを失い永遠に変わってしまうことをおそれ悩む。
彼女の目に涙があふれる。「自閉症者であることは悪いことです。自閉症者であることを怒るのは悪いことです。自閉症者でないことを望むのは——自閉症者であることを望まないのは——悪いことです。みんな悪いやり方。正しいやり方はない」
「馬鹿なことだよ」とチャイが言う。「ぼくたちに普通になれと言っておきながら、いまのままの自分を愛しなさいと言うなんてね。ひとが変わりたいと思うのは、いまの自分のどこかが嫌だからだ。ほかのあれは——不可能だ」(第十九章)
私をもっとも脅かしていたのは、彼らはことによると——ぜったいに——現像するニューロンの結合ばかりでなく記憶もいじくりまわすかもしれないということだ。彼らは私と同じように知っているにちがいない、私の過去の体験は、この自閉症的な視点から得られたものだということを。ニューロンの結合を変えても、それは変わらないだろう、そしてそれが私という人間を形成していたもなのだ。
しかしもし私が、これがどんなものかという、いまの私はこういう人間だという記憶を失ってしまったら、私は三十五年間に私が築いてきたすべてを失うことになるだろう。私はそれを失いたくない。本で読んだことを覚えているようにものごとを覚えているのはいやだ。マージョリが、ビデオの画面で見るような人間であってほしくない。私は記憶にともなう感情を大切に持ち続けていたいのだ。(同)
しかし彼はとある事件をきっかけに物事が永遠に同じではないことを知り、治療を受けることを決意する。
だがいま、ドンの襲撃の直後のいま、私に見えるのは光より速い暗闇、銃身から飛び出して私を光の速度を超えた永遠へと引きこもうとしているもの。(第十八章)
「これは彼女の問題ではありません。ぼくは彼女が好きです。彼女に触りたい、彼女を抱きしめたい。そして礼儀に反したこともしたい。でもこれは……」(中略)「ぼくは同じではないでしょう。ぼくが変わらないことはありえない。これはただ……速い変化です。でもぼくはこれを選びます」(第二十章)
ひとびとが望もうと望むまいと、状況は変わるものだ。男は池のほとりで横たわっているだろう、何週間も、何年も、舞い降りてくるかもしれない天使のことを思いながら、だれかが立ち止まり、おまえは癒やされたいのかと尋ねるために。(第二十章)
ここで触れられているのは「ヨハネによる福音書」の中のエピソード。病んだ男が、病人を回復するという池のほとりで動けず横たわっている。そこへイエス・キリストが通りかかり「おまえは癒やされたいのか」と問う。手も足も萎えた男は誰かに池につけて欲しいと願っているがあえてイエスは問いかける。お前は唯一の救いである泉につかることを願っているのかと。
臨床治験というリスクをおかしてまで、なぜ彼自身が変わろうと思ったのか。フェンシング・クラブのメンバーであるマージョリへの恋心が次第に大きくなっていたこともある。しかし、それは彼自身が今までとは異なった人間になることも意味しており葛藤する。
私が戻ってきたとき——治療がうまくいって、脳も体も同じようにほかのひとたちと同じになるとしたら——私はいまの私と同じように彼女が好きだろうか?(第二十章)
彼にとって自分が変わることは光が暗闇に追いつくことであった。
なぜひとびとは宇宙を、冷たく暗いところ、歓迎したくないところとして話すのか私にはわからない。夜、外に出て行き空を見上げたことがないのだろうか。ほんものの暗闇があるところ、われわれの器具の届かぬ先、宇宙のかなたの縁であるそこは暗闇が先にやってくる。だが光はそれに追いつく。(第二十章)
自閉症は治療すべき病気なのか、社会に適応していればそれはいわば個性のようなものではないか。仮に脳神経学的な治療法があるとしてそれが脳のあり方を変え以前のその人とは違う人間になってしまうとしたら……。これら難しい命題が読者につきつけられる。
本作ではそれは個人の意思で選択すべきものであると結論づけている。作中で引用されるイエスが不治の病人に癒やされたいのか問いかけたように。そして彼は選択する。
本作はSF的な小道具を用いるわけではなく、世界を揺るがすような事件が起こるわけでも無い、しかし読者が世界の異なる見方を体験するという意味で確かにSFであると思う。読者は丁寧に進む物語に多少はもどかしさを感じつつもルウを通して体験する〈世界〉に次第に惹きこまれていくに違いない。結末は、誰もが同じではいられないことの切なさと同時に未来への希望が示されている。
【感想】マイクル・フリン『異星人の郷(さと)』
14世紀の南ドイツの村、近くの森に雷鳴とともに〈船〉が不時着する。乗っていたのは大きな眼を持ちその容貌はバッタやカマキリを思わせる〈クレンク人〉だった。その村、上ホッホヴァルトで代表として彼らと接触するのは、村の教会の主任司祭を務めるディートリヒ。彼は村の司祭であり、パリで学んだ当代一、二を争う知識人でもあるが、過去に秘密を持ちそのことを悔やんでいる。
一方、現代のアメリカでは統計歴史学の研究者トムが南ドイツ〈黒い森〉地方にある時代以降まったく人が居住しなくなった特異領域を発見する。彼は文献史学を学んだ図書館員ジュディの手を借りつつ、何がそこに起こったかを知ろうとするが、真相に迫っていくにしたがいトムの同居人のシャロンの最新物理学の研究と奇妙な符合を見せていく——
本作のテーマは「異質な知的生物が出会うとき、相互理解は成立するのか」という“ファーストコンタクト”ものではおなじみのものだが、ここでは異質性と共通性がキーとなる。
神父をはじめとする中世の村や城館に暮らす人々と、星々を旅してきたクレンク人たちの間には、テクノロジーだけではなく社会その心のありようを含めて隔たりは大きい。作中ではディートリヒ神父がクレンク人たちがある種の社会性昆虫であることを洞察し、信仰のない動物に知性は宿るのかという神学的命題に苦悩する。
状況に流されつつではあるものの、徐々にではあるが双方が互いを理解しようとするのである。最終的に人々の双方が理解に至ることはないものの、ある種の悲劇的事件をきっかけに個人と個人との結びつきを確認するのが救いである。
読者は異星人ばかりでなく中世人に対しても、われわれとの共通性と同じくらい異質性を具えていることに驚かされるだろう。両者を客観的に眺められる視点故に、物語の中盤以降で異星人たちの一部が読者のわれわれにもとっても異質なキリスト教的世界観の中から次第に何かを学び、遂には「よりよく生きる知恵」を見いだしていく姿により一層共感できる。
またディートリヒ神父の朋友としてオッカムのウィリアム(1285-1347)など史実上の同時代人も登場する。科学革命は未だ遠く迷信に満ちた暗黒時代のイメージがいまだ強いヨーロッパ中世に現代に通じる合理性の萌芽がすでに見いだされる点も興味深い。
現代パートについて。中世パートの科学的根拠を補完する意味もあるが、それはどちらかといえば副次的なものだろう。作者は現代風の価値観を持つトムとシャロンらとその生活のありようは過去パートとの対照を際立てつつ、中世人の暮らしのつつましさや精神的に豊かさといったステロタイプにな表現に堕することなく遙かな昔に生きた人々をリアルに描いている。ディートリヒ、ヨアヒム、テレジア、グレゴール、…中世パートの登場人物たちの弱さとたくましさの両面が魅力的だ。
当初、読者はトムたちが知っているよりも多くのことを知っており時折挟まれる現代パートの謎解きがもどかしいのも事実。エピローグでようやく〈現代〉が〈過去〉に追いつく。そしてその先にあるのもはどういうものだろうかと期待させる結末となっている。
「いつか——シャロンの研究が完成したら——どこから来たのかはっきりさせて、故郷に帰してやるんだ。ぼくたちにできなくても、子どもたちの子どもたちくらいの時代には、きっと」
このエピローグだけでも現代パートの価値がある。最後に挿入される印象的かつシーンためにこそあると思う。自動車で半日かけて森林地帯に出かけ数人で地面を掘るだけなのだが、それが長い時間をかけた旅の終わりにはふさわしく感じる。
【感想】高山 羽根子『うどん、キツネつきの』
「そう、読む人が文字だって思えば、傷だって文字でしょ」(「シキ零レイ零 ミドリ荘」)
著者のデビュー作となる短編集。淡々と語られる日常にそっとしのびこませたSFともファンタジーとも判別しかねる独特の味わい。作品にも共通するのは世界ではなく人生の不思議を語ること、あえて言うと「怖くないホラー」だろうか。
うどん、キツネつきの
和江と美佐の姉妹は学校からの帰り道、ゴリラの大きな立体看板のあるビルの屋上で産褥の血にまみれた生後間もない生き物を見つける。〈うどん〉と名付けられたその「犬」とともに過ぎていく三姉妹の人生。予想外のラストはまさにキツネにつままれたような気分になる。英語題名は"Unknown Dog of Nobody"
シキ零レイ零 ミドリ荘
古いアパートの大家である祖母と暮らすミドリとそれをとりまく人々。隣に住む同級生のキイ坊、ホラ吹きで周囲に面倒ばかりかけているが憎めない篠田のおっちゃん、ベトナムから来た背が高く美人だが何でも信じてしまうグェンさん、落書きの文字や虫が食った跡にも深淵な意味を求めてしまう大学生のタニムラ青年、部屋から一歩も出ることなくネットショッピングの宅配で暮らし顔文字で会話するエノキ氏、おしゃべりで明るい中国人の王さん、一癖も二癖もある変な住人達との毎日——。
ファンタジー色があるのはタニムラ青年の「キクイムシ」のエピソード、あとはまるで「じゃりン子チエ」のようなコミカルでちょっとズレた日常が描かれる。どこかおかしくも楽しい日常もいつか終わりが来る、ミドリとキイ坊が夜にパチンコ店のサーチライトを見に行くエピソードに胸がじんとする。英語題名”Malnova Domo”とはエスペラント語で「古い家」
母のいる島
島に生まれ暮らす母を同じくする十六人のきょうだいはみな母親から受け継いだ能力と『レッスン』によるすぐれた技能を持っている。島を出て働いていた美樹は母の入院を機に島に帰ってくるが、母が十六人もの子どもを産んだ理由とは——。
テーマは「母性と生き伝えていくこと」とストレート。大家族の賑やかさが楽しいが、それが母の「不在」を一層感じさせる。英語題名”The Mother on the Slope Yomotsu”とは黄泉比良坂=死者の国のこととすれば「死の床にある母」という意味になる。
おやすみラジオ
タイトルはかわいいがホラー色が強い作品。絵手紙教室で老人たちに教える比奈子が偶然ネットで見つけたブログには、小学生と思しきタケシとその友だちが「ラジオ」と呼ぶ機械を見つけ図書館のロッカーに隠したことが日記形式でつづられていた——。
ネットで広がっていく「ラジオ」というのは比奈子の父親が言った百科事典の「嘘の言葉」と同じものだろうか。最後にほのめかされる噂の実体は空虚そのものなのだが、そこに何か意味を付与しようとするのは人間の性質のように思える。
英語題名”Radio Meme”は「ラジオのミーム」本作のテーマを直截に表している。
巨きなものの還る場所
「大きなものには魂がやどる」ねぶたに惹かれ島根から青森にやってきた市哉と若き天才ねぶた師の那美。昭和初年、岩手で軍用馬を育てる和吉と伊作、伊作の姉と天翔る神馬〈太夫銀〉。京都の博覧会に出品された人造人間〈学天測〉、ドイツの古物商で分解された学天測の目玉を見つける医師(伊作の成長した姿だろうか)。出雲国風土記で語られる『国引』伝説とねぶた。大太郎法師(ダイダラボッチ)になぞらえた巨人タイタン神。東北出身の地球物理学者田中舘愛橘。マルク・シャガールの手になるバレエ『アレコ』の舞台背景画を観るために東北へと旅をする佳代とタダシュン。
これら複数のエピソード、多種多様なモチーフが最後に暴力的とも言える力を持ってひとつになるのは圧巻。
「前に言ったろう。人が身の丈に合わねえ大きいもの作ると命を持つって」
「ありゃ、想いだ」「自分の居場所と、一族を想う、想いだけがあって、それに、人間が身の丈に合わねえもんを……」
複数のエピソードが生のまま放り込まれ最後に無理矢理一つにまとまっていくダイナミズムは「国引」を物語のかたちで再現したのだろうか。英語題名の”Conservatoire”はフランスにおける美術・音楽の学校のことだがどういう意味だろう。
個人的なベストは「シキ零レイ零 ミドリ荘」多種多様な登場人物と彼らの飄々とした会話が素晴らしい。一方で「巨きなものの還る場所」のすべてのプロットをあたかも一本の綱にまとめていくような力強さも捨てがたい。著者の今後の作品にも期待したい。
【感想】阿部 洋一『オニクジョ』
京都で大学生活を始めた岩倉宗太。アパートの部屋に突如として現れたのは「畳オニ」のキヨシ。そこへ隣室の謎めいた女子高生九条ふきが突如襲ってきて——
敢えてジャンルづけするなら青春+伝奇モノだろうか。
どこか懐かしさを感じさせる独特なタッチの絵、ダークな世界観に不気味かわいいクリーチャー、戦うセーラー服、そして毒を含んだ物語展開は著者の作品に共通するもの。本作は連作形式とはいうものの、この作家は短編作品でこそその魅力を最大限に発揮するとの思いを強くした。
「通常営業」とでも言うべき表題作+続編の後で、独立した短編「金属のキミへ」を読むとそのエロスな方向性が新鮮に感じられる。そういえば以前読んだ連作短編集『橙は、半透明に二度寝する』は青春に絡めたユーモアの中に死の臭いがまとわりつく妙な雰囲気を持つ作品だった。