冷蔵庫にはいつもプリンを

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【感想】エリザベス・ムーン『くらやみの速さはどれくらい』

暗闇がなぜ光より速いかと言えば暗闇は光より先にそこに行きついているからだ。(第十一章)

 

くらやみの速さはどれくらい (ハヤカワ文庫 SF ム 3-4)

くらやみの速さはどれくらい (ハヤカワ文庫 SF ム 3-4)

 

主人公ルウ・アレンデイルは自閉症者で製薬企業の研究開発部門に勤務している。この時代、初期段階の早期介入技術の向上と教育法と、コンピュータによる感覚統合訓練の進歩により自閉症を抱える人々もある程度まで社会に適応することができた。しかしその後の遺伝子治療の導入で彼や彼の同僚は「最後の自閉症者」の世代となっている。

物語は「私」ルウの目から見た日常を、彼をとりまく「正常な」人々のパートを挟みつつ描写する。

星の光は、とある作家は言った、宇宙全体にみなぎっている。宇宙全体が光っている。暗闇は幻想である、とその作家は言った、もしそうなら、ルシアの言うことは正しく、暗闇に速さはない。
だがここに単純な無知がある、知らないということ、それから知ることを拒むという恣意的な無知、それは知識という光を偏見という暗い毛布で覆うもの。だから私は、きっと陽の暗闇というものがあると思う、暗闇には速度があると思う。(第十六章)

 

私は自分のオフィスに入り、光と闇と星と、星が注ぐ光であふれている宇宙空間を思う。あんなにたくさんの星がある宇宙になぜ暗闇があるのだろう?星が見えるということは、そこに光があるということだ。
(中略)ほんものの光があることころ、われわれの器具の届かぬ先、宇宙のかなたの縁であるそこは暗闇が先にやってくる。だが光はそれに追いつく。(第十九章)

本作の中でいくどか挿入される暗闇のメタファー。ルウは自分のいるところが「暗闇の中」なのか自問する。それは彼、自閉症者が正常(ノーマル)な人々と何が違うという疑問につながっていく。

「ぼくは、今の自分が好きです」と私は言う。「自閉症はいまのぼくの一部です。それは全体ではありません」それが真実であればいいと私は思う、私は自分の診断判定以上の人間なのだ。(第十七章)

ルウの勤務先では新しい上司が自閉症者に対して新たな治療を導入しようとする。またルウが所属するフェンシングクラブでは彼を巡って人間関係がきしみ始める。

ルウと同じく自閉症者の同僚たち、彼らもまた新治療によって自分が自分であるよりどころを失い永遠に変わってしまうことをおそれ悩む。

彼女の目に涙があふれる。「自閉症者であることは悪いことです。自閉症者であることを怒るのは悪いことです。自閉症者でないことを望むのは——自閉症者であることを望まないのは——悪いことです。みんな悪いやり方。正しいやり方はない」
「馬鹿なことだよ」とチャイが言う。「ぼくたちに普通になれと言っておきながら、いまのままの自分を愛しなさいと言うなんてね。ひとが変わりたいと思うのは、いまの自分のどこかが嫌だからだ。ほかのあれは——不可能だ」(第十九章)

 

私をもっとも脅かしていたのは、彼らはことによると——ぜったいに——現像するニューロンの結合ばかりでなく記憶もいじくりまわすかもしれないということだ。彼らは私と同じように知っているにちがいない、私の過去の体験は、この自閉症的な視点から得られたものだということを。ニューロンの結合を変えても、それは変わらないだろう、そしてそれが私という人間を形成していたもなのだ。
しかしもし私が、これがどんなものかという、いまの私はこういう人間だという記憶を失ってしまったら、私は三十五年間に私が築いてきたすべてを失うことになるだろう。私はそれを失いたくない。本で読んだことを覚えているようにものごとを覚えているのはいやだ。マージョリが、ビデオの画面で見るような人間であってほしくない。私は記憶にともなう感情を大切に持ち続けていたいのだ。(同)

しかし彼はとある事件をきっかけに物事が永遠に同じではないことを知り、治療を受けることを決意する。

だがいま、ドンの襲撃の直後のいま、私に見えるのは光より速い暗闇、銃身から飛び出して私を光の速度を超えた永遠へと引きこもうとしているもの。(第十八章)

 

「これは彼女の問題ではありません。ぼくは彼女が好きです。彼女に触りたい、彼女を抱きしめたい。そして礼儀に反したこともしたい。でもこれは……」(中略)「ぼくは同じではないでしょう。ぼくが変わらないことはありえない。これはただ……速い変化です。でもぼくはこれを選びます」(第二十章)

 

ひとびとが望もうと望むまいと、状況は変わるものだ。男は池のほとりで横たわっているだろう、何週間も、何年も、舞い降りてくるかもしれない天使のことを思いながら、だれかが立ち止まり、おまえは癒やされたいのかと尋ねるために。(第二十章)

ここで触れられているのは「ヨハネによる福音書」の中のエピソード。病んだ男が、病人を回復するという池のほとりで動けず横たわっている。そこへイエス・キリストが通りかかり「おまえは癒やされたいのか」と問う。手も足も萎えた男は誰かに池につけて欲しいと願っているがあえてイエスは問いかける。お前は唯一の救いである泉につかることを願っているのかと。

臨床治験というリスクをおかしてまで、なぜ彼自身が変わろうと思ったのか。フェンシング・クラブのメンバーであるマージョリへの恋心が次第に大きくなっていたこともある。しかし、それは彼自身が今までとは異なった人間になることも意味しており葛藤する。

私が戻ってきたとき——治療がうまくいって、脳も体も同じようにほかのひとたちと同じになるとしたら——私はいまの私と同じように彼女が好きだろうか?(第二十章)

 彼にとって自分が変わることは光が暗闇に追いつくことであった。

なぜひとびとは宇宙を、冷たく暗いところ、歓迎したくないところとして話すのか私にはわからない。夜、外に出て行き空を見上げたことがないのだろうか。ほんものの暗闇があるところ、われわれの器具の届かぬ先、宇宙のかなたの縁であるそこは暗闇が先にやってくる。だが光はそれに追いつく。(第二十章)

自閉症は治療すべき病気なのか、社会に適応していればそれはいわば個性のようなものではないか。仮に脳神経学的な治療法があるとしてそれが脳のあり方を変え以前のその人とは違う人間になってしまうとしたら……。これら難しい命題が読者につきつけられる。

本作ではそれは個人の意思で選択すべきものであると結論づけている。作中で引用されるイエスが不治の病人に癒やされたいのか問いかけたように。そして彼は選択する。

本作はSF的な小道具を用いるわけではなく、世界を揺るがすような事件が起こるわけでも無い、しかし読者が世界の異なる見方を体験するという意味で確かにSFであると思う。読者は丁寧に進む物語に多少はもどかしさを感じつつもルウを通して体験する〈世界〉に次第に惹きこまれていくに違いない。結末は、誰もが同じではいられないことの切なさと同時に未来への希望が示されている。

原題 "The Speed of Dark"  2004年〈ネビュラ賞〉長編部門 2004年〈ベストSF海外篇〉7位