冷蔵庫にはいつもプリンを

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【感想】マイクル・フリン『異星人の郷(さと)』

 14世紀の南ドイツの村、近くの森に雷鳴とともに〈船〉が不時着する。乗っていたのは大きな眼を持ちその容貌はバッタやカマキリを思わせる〈クレンク人〉だった。その村、上ホッホヴァルトで代表として彼らと接触するのは、村の教会の主任司祭を務めるディートリヒ。彼は村の司祭であり、パリで学んだ当代一、二を争う知識人でもあるが、過去に秘密を持ちそのことを悔やんでいる。
 一方、現代のアメリカでは統計歴史学の研究者トムが南ドイツ〈黒い森〉地方にある時代以降まったく人が居住しなくなった特異領域を発見する。彼は文献史学を学んだ図書館員ジュディの手を借りつつ、何がそこに起こったかを知ろうとするが、真相に迫っていくにしたがいトムの同居人のシャロンの最新物理学の研究と奇妙な符合を見せていく——

 

異星人の郷 上 (創元SF文庫)

異星人の郷 上 (創元SF文庫)

 
異星人の郷 下 (創元SF文庫)

異星人の郷 下 (創元SF文庫)

 

  本作のテーマは「異質な知的生物が出会うとき、相互理解は成立するのか」という“ファーストコンタクト”ものではおなじみのものだが、ここでは異質性と共通性がキーとなる。

 神父をはじめとする中世の村や城館に暮らす人々と、星々を旅してきたクレンク人たちの間には、テクノロジーだけではなく社会その心のありようを含めて隔たりは大きい。作中ではディートリヒ神父がクレンク人たちがある種の社会性昆虫であることを洞察し、信仰のない動物に知性は宿るのかという神学的命題に苦悩する。
 状況に流されつつではあるものの、徐々にではあるが双方が互いを理解しようとするのである。最終的に人々の双方が理解に至ることはないものの、ある種の悲劇的事件をきっかけに個人と個人との結びつきを確認するのが救いである。

 読者は異星人ばかりでなく中世人に対しても、われわれとの共通性と同じくらい異質性を具えていることに驚かされるだろう。両者を客観的に眺められる視点故に、物語の中盤以降で異星人たちの一部が読者のわれわれにもとっても異質なキリスト教的世界観の中から次第に何かを学び、遂には「よりよく生きる知恵」を見いだしていく姿により一層共感できる。
 またディートリヒ神父の朋友としてオッカムのウィリアム(1285-1347)など史実上の同時代人も登場する。科学革命は未だ遠く迷信に満ちた暗黒時代のイメージがいまだ強いヨーロッパ中世に現代に通じる合理性の萌芽がすでに見いだされる点も興味深い。

 現代パートについて。中世パートの科学的根拠を補完する意味もあるが、それはどちらかといえば副次的なものだろう。作者は現代風の価値観を持つトムとシャロンらとその生活のありようは過去パートとの対照を際立てつつ、中世人の暮らしのつつましさや精神的に豊かさといったステロタイプにな表現に堕することなく遙かな昔に生きた人々をリアルに描いている。ディートリヒ、ヨアヒム、テレジア、グレゴール、…中世パートの登場人物たちの弱さとたくましさの両面が魅力的だ。
 当初、読者はトムたちが知っているよりも多くのことを知っており時折挟まれる現代パートの謎解きがもどかしいのも事実。エピローグでようやく〈現代〉が〈過去〉に追いつく。そしてその先にあるのもはどういうものだろうかと期待させる結末となっている。

「いつか——シャロンの研究が完成したら——どこから来たのかはっきりさせて、故郷に帰してやるんだ。ぼくたちにできなくても、子どもたちの子どもたちくらいの時代には、きっと」

 このエピローグだけでも現代パートの価値がある。最後に挿入される印象的かつシーンためにこそあると思う。自動車で半日かけて森林地帯に出かけ数人で地面を掘るだけなのだが、それが長い時間をかけた旅の終わりにはふさわしく感じる。

原題 "Eifelheim" 2010年〈ベストSF〉1位、第42回(2011)星雲賞〈海外部門〉受賞